ハードワーク

書籍-東洋経済新報社
2006/01/24 記
 英国で記者をしている筆者が、実際に低所得者の生活を体験し、それをまとめた本。中産階級とよばれる層が無くなってしまた英国で、上に上るハシゴすら存在しない低所得者層はどのような生活をし、どのような事を感じているのか。それが赤裸々に書きつづられている。

 本書は、主に低所得者層がどのような職に就き、そこにどのような問題――こと所得を増やすという方向での――が潜んでいるかを分析している。一つの職では生活費すら稼げないような、その上さらに不安定な職に就かざるをえない人達の抱えさせられている問題を。そして、それらを、ただ淡々と分析しているのではなく、筆者の思ったこと、感じたことを基調にして本書は書かれている。そのため、分析と言うよりはエッセイといった趣もある。気が滅入ってくるような内容ではあるが。

 本書を書くための準備として、筆者はまず最初に住居を探し始める。古びた公営住宅。悪臭の漂う廊下。立て付けの悪いドア。麻薬の売人や素性の知れない若い女達が出入りする治安の悪さ。知り合いのツテでそこを住居と決めた筆者は、無職の人間として政府の生活支援プログラムからお金を借りるところからこの計画を始める。その借りたお金で税金を払い、家具を買い、食料品を買い、職を探し始める。

 やがて筆者は職を見つけて働き始めるが、ここに至るだけでも既に借金を背負い、しかもカーテンレールも無いような部屋に住むことになっている。筆者はしょうがなく、釘と靴ひも(靴のかかとが金づちがわり)でカーテンを窓に吊すことにしたのだが、そこに書かれたカーテンレールは高価なうえに、取りつけしにくいという言葉は、なんとも胸に迫る一言だった。

 そうして筆者は働き始めるが、その全てがひどい有様だった。仕事内容だけではない。その面接から全てが凄まじかった。まず、面接に行ってもまともな対応はされない。いつ呼ばれるか解らないような状態で、何時間でも平気で待たされる。もちろん、それで仕事が見つかる保証もない。それでいて服装や顔写真、交通費に少なからずお金がかかる。食にすら困るような状態であるにも関わらず。

 そうして決まった職場では、まず最初に「契約外の事を絶対に行ってはならない」ときつく言われることから始まった。それがどんなに非効率的に思えても、ちょっとした行動がどれだけ周りを助けることになったとしても、それを行えば注意され、煙たがられ、そして首になるのだ。例えば病院で、患者を新しい病室に運ぶときに、患者を乗せた車いすを押すことは出来ても、ベッドから患者を車いすに乗せることは禁じられている。看護師達が対応してくれるまで待たなければならないし、その看護師達が忙しすぎて、どう見ても人数が足りないように思えても(そのために作業に手間取っても)手を出してはいけない。

 それが契約だ、と言ってしまえばそうなのだが、かといってそこに投げかけられる改善案には誰も見向きもしない。複雑な、あるいは、デリケートな作業を行うには訓練が必要で、極端に低賃金な為に入れ替わりの激しい彼らにその訓練を行う費用をかけるなど、誰も現実味があるとは考えないのだ。そうして、結局、単純な(しかし必要な)作業しか行えない彼らの賃金は低く抑えられたままとなる。負のスパイラルだ。契約内容の見直しや訓練を行うことによってかかるコストと、効率化によって浮くであろう費用を誰も比較しようともしない。まず、安いこと。それが全てなのだ。

 筆者はいくつもの職業をそうして渡り歩いていくが、どの職場でも似たような状況だった。多少の差異や例外はあっても、気の滅入るような話ばかりだ。そして、さらに職を変える恐怖にすら筆者は言及する。新しい職場。新しい同僚。新しいルール。少しでも収入を増やしたいのは誰しも思っていることだが、かといって収入が途絶える恐怖(他で働きながら転職活動が出来るほど仕事は暇ではないし、時給制なのでその分収入も減る)や面接で落とされる絶望を、好んで味わいたいとも思っていないのだ。

 そうして筆者は、病院のポーター、給食のおばさん、託児所、テレアポ、ケーキ宅配の積み込み、老人ホーム、等を体験していく。病院、育児、食事、老人介護。無くてはならない職を、けれど低賃金の彼らが支えている。特に老人ホームに関しては、ひたすらに気が滅入る内容だった。ここにきたら、もう二度と外の世界に戻ることはない。この一文を見たときの不安を、なんと形容したら良いのだろうか。


 この本を読みながら、僕は自分の母親を強く思い出していた。母の生活は、この世界にかなり近い。人材派遣のエージェンシーに登録し、不定期に働いている。ただし、ここまで生活に困窮するほどではない。旅行などの趣味に使えるお金もあるようだ。とはいえ、年金収入がなければ恐らくそうはならなかっただろう。僕にとっても身近な話題でもあるのだ。

 英国のこの姿は日本がとりえる未来の姿の一つ、と言われているが、では実際、どうなるだろうか。筆者は、これを改善するには政治の力しかない、と言い切るが、果たしてそうであった場合、対応できるだけの政策を打ち出せる政治家が出てくるのだろうか。それとも、もっと酷くなるのだろうか。
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