Prismaticallization

Prismaticallization
Dreamcast版
2001/01/29 記
2004/06/05 修正
 世間様の評判は芳しくないようですが、僕はおおいに受けました。
 ともかく主人公のヘタレっぷりがしっくりくるのです。と言うわけで以下の文章は主人公っぽく理論武装風で書いてみましたが……失敗気味ですね。

◆導入
 なんだか知らないが数年間まともに話したこともない幼なじみに誘われてやってきた避暑地。なにが『快適な環境で受験勉強を』だ? ……いったいなにをたくらんでいやがる……?

◆CG
 非常に売れそうな美少女絵である。多くのユーザはこれを見て美少女恋愛ゲームだとおもったのではないだろうか? また、パッケージ、つまりジャケ絵であるが臀部(ケツ)が強調されていて一部のエロゲーよりもよっぽど卑猥だ。ゲーム内容もこれから容易に想像できる路線であったのならもっと売れただろうし、そして僕がこのような文を書くことにもならなかっただろう。

◆BGM
 普通のポップな曲。全体的にひたすら軽快で、薄く、パワフルで無い。そもそも音楽に関しては素人もいい所なのでなにも言うことを思いつかない、というのが正直なところだが。
 ただ、OPソングの気の抜けッぷりは実に心地良かった。

◆システム
 多くのゲーム同様、Prismaticallizationでは主人公を介してゲーム世界へ干渉していくものだが、それらの多くは行動を選択させる物が占める。それは時として選択したくもない選択肢しか存在しないと言うジレンマを生むが、直線的でありユーザは主人公と同化、或いは主人公を導くことによってゲームを進める事が出来る。つまり、主人公への感情移入がしやすいシステムなのだ。
 しかし、Prismaticallizationではユーザと、ゲーム世界とのインタフェースである主人公との関係は希薄だ。ユーザが行える行為は、種々の出来事を『記録』するか? しないか? という二択のみである。主人公はこれに対して主人公なりの態度をとる。つまり、ゲームシステムとしてユーザは従来あった物に比べてさらにゲーム世界との距離を置かれているのである。
 そして、EDを迎えるまでゲーム世界は終了しない。午前9時を境に永遠に同じ世界を体験することとなる。それがPrismaticallizationの肝である『循環システム』である。

◆循環システム
 ゲームオーバーの排除、極力最小限に押さえられている選択肢、そして変化するシナリオ。
 たった24時間という限定された時間軸の中でフラグによってさまざまにシナリオが派生して行くこのシステムは現在エロゲー市場で定着しているノベルシステムのようなADVゲームの派生である。そして、ノベルシステムの優れた部分の一つ、特定のエンディングを見ることによって新たな選択肢が出てくるというシナリオの派生に関してPrismaticallizationはさらに一歩進んでいるように思える。
 端的に言うならばこれらは『フラグ立て』の一種になるのだが、Prismaticallizationではこれをエンディングではなくシナリオ中で行っている。
 これによって、先を見るために特定のエンディングを必ず見なければなら無いと言う制約を突破できるのである。
 ささやかなこの一点が、しかしノベルではなく『ゲーム』としてなりたたさせているのだ。この点は評価すべきだ。

◆シナリオ
 『同じ一日が繰り返される』シナリオであるが、大まかに分けると3つのパターンがある。
 まずは受験勉強をする。そしてバトミントンをして遊ぶ。最後に釣りに出かける。
 それとは別に、シナリオ上2つの流れがある。草加シナリオと木ノ下シナリオだ。
 これらのなかに5人のヒロイン達のシナリオ、そしてENDへの道が隠されている。
 また、繰り返される(午前9時がくる)と、主人公はそれまでの経験を忘れてしまうのも一つの要素だ。『記録』システムはそのために存在するのだが、かといってゲーム世界に与える影響は極小さな物でしかなく既視感や既成事実が生まれる程度である。
 と言うわけだが、シナリオ上、時系列、という流れは存在しないに等しいので、ヒロインごとのシナリオにわけて全体のシナリオの感想を述べていこうと思う。

・鳴川澄香/沢村雪乃
 マニュアルで『頭悪い』と紹介されている不幸の人と『ブラコン』と紹介されている割にはあんまりそんなシーンのない人。
 この二人のシナリオは大部分が重なっている。わずかな違いは夜のシーンでなにを記録するのか? のみである。
 この二人、対照的な行動理念をもっていながらどちらもひどく他人に依存している為、恐ろしく臆病だ。それでいてまだそれらと折り合いをつける方法を見いだせていないため極端な否認行動や抑圧を行う。
 澄香に関してはその思考が幼稚なのだ。短絡的ともいえる。ただ純粋な面を持っているのかはたまた想像(妄想)力がないのか理論の置換が出来ない。はやく嘘笑いを覚えて大人的態度をとれるようになることを望む。
 雪乃に関しても非常に短絡的だ。ただこちらは想像(妄想)力が強くあっという間に見た事を投射/置換し、曲解していく。
 どちらも自己のバックボーンの不在、アイデンティティの不確立から来る他者への依存によって引き起こされる誤解や爆発であり、そんなことを考えながらプレイしていると気分は中学生日記である。

・柊明美
 たれ目なのでそうは見えないがマニュアルで『凶暴』と紹介されている。すぐに主人公を殴るから、と言うのがその由来だがたとえ殴るとしても身体接触は親密さを得るための有効な方法だ。
 彼女のシナリオ中で主人公の最初の疑問、なぜ自分が誘われたのか? がわかるのだがそこから見えてくるのはやはり彼女も思いこみが激しく不安定な精神状態であることだ。
 彼女は嘘笑いも嘘泣きも狸寝入りも出来る大人的なキャラクタではあるが、アイデンティティを喪失しかかっているため(むしろ、再構築なのかもしれないが)このような行動に出たのである。その、恐れはあってもともかく前に進もうという態度は好感のもてるものだ。

・木ノ下さより
 恋に生きる女!それ以外特筆すべきところは無い。せいぜい酒飲んでクダまいてるくらいである。……って本当にそれ以外ぱっとしないなぁ……

・琴原みゆ
 離人症、とのことだが、最初それが一体何なのか想像すらつかなかった。せいぜいが心の病、程度のものだ。さらにそれに対する説明は症状でしか語られない。ここで『離人・現実感喪失症候群』と、一言入れておけばわかりやすかったと思うのだが。
 と、不満もあるがみゆシナリオはPrismaticallizationの世界観/循環する世界の説明が多分に含まれており一部ユーザの満足度は高いのではないだろうか。また、澄香シナリオでも同様に循環世界に対する説明が一部なされているのでみゆシナリオを面白いと思った方は澄香シナリオもプレイされることをお勧めする。

◆おまけ紹介
・草加/琴原(父)
 シナリオ上、重要な位置にいるのだが、実際はほぼ蚊帳の外の彼ら。そんな彼らがやっと出てきてこの循環世界を自分なりに説明しているそれに対して、主人公は「電波な人」等々ひどい物言いである。長々と主人公につきあってきたユーザにとってみれば主人公が一番電波な人であるのに。

◆システムのつづき
 さて、循環システムという『繰り返しプレイの強制』のような仕組みがPrismaticallizationの根幹をなしているのだが、救済策として既読、未読の判断を持った高速なメッセージスキップが用意されている。
 Lボタンを押す。たったこれだけでビデオの早送りのようにゲームは進んでいく。読みとれる速度ではないテキスト、表示を待たずに消えるCG、時折思い出したようにでてくる『記憶』の選択肢。
 この選択時間を足しても、ほとんどのテキストが既読としてマークされている状態であると2分とかからず一巡してしまう。つまり、午前9時を迎えるわけだが、しかしこれはシステムとしての救済策である一方、主人公の感じている世界そのものの表現ではないかと思わせる節がある。
 たんに高速表示だけを目的としているのならCG表示のエフェクトを切っても良いはずである。
 しかし、ここでCGエフェクトを、しかも完全に表示されないモノをあえてそのように手間暇かけて作り上げ、行うのはなぜか?
 それが日常…特に主人公の感じているモノではないのだろうか。

 『人間は変化しか知覚できない。この美しい景色も見慣れれば何も見ていないのと同じになる』
 ゲーム中、主人公がそう語る時がある。人の知覚能力などカエルと大差ない、というシーンだ。
 それは、ユーザサイドからみた、スキップできるシーン=変化しない風景と言っているように感じる。

 つまり、そういうことではないだろうかと。

◆総評
 これは美少女恋愛ゲームではない。そう思って購入したユーザは不幸だろう。その上、本当にすばらしいゲームでもない。感動もない。ひねりも足りない。ユーザへの配慮も当然ない。なにもかもが不足している。期待を裏切られても行き着く先すら無いのだ。
 ただ、ほんの一握り-本当に少ない一握り-のユーザには大いに受けた。
 まずはその実験的なシステム。いや、まさに実験作であったと僕は思うそれは、ゲームの一可能性を示している。まさにゲーム、より正確に言うならばコンピュータゲームならでは、の手法だ。
 そしてシナリオ。そのほとんどを主人公のモノローグにしめられているシナリオは主人公の感じる物、つまり日常への恐怖が詰まっている。『日常の恐怖』ではない。『日常への恐怖』だ。我々が日々暮らす日常への恐怖なのだ。
 より正確に言うならば、明日がくると言う事への恐怖だろうか。
 常に変化し、しかも不可逆であるため元には戻れないという現実。ここから歩き出すのに右足から出すのか左足から出すのか、そのどちらが正しいのかという判断を日常的に迫られ、そしてそれに失敗すればその失敗は不可逆であるために無限に増幅される。つまりカオスとなる、という恐怖。それでいて同じような単調な生活が続いているという現実。安定に唾棄しながら、なお『変化』を求めるという背反性。しかし、それらをどれだけ憎んでも結局『それ』を変えることはできない。
 だったらもう、憎み続けるか、恐怖し続けるしかない。
 かといってそうなればもう発狂する以外に選択肢はない。主人公にとって『現実と折り合いをつける』という行為はそういうことだ。主人公はもう発狂する以外に道はない所まで追いつめられている。
 そんなだれもが経験する、永遠のジレンマ。それがこのゲームの本質ではないのだろうか?

 しかし最後に。シナリオライタは実に青臭いこのシナリオに対して一つの答えを提示している。

 - 一歩、踏み出す勇気を -





※注
実際はもっと軽いノリでちょっと時間がある時にちょっと遊ぶようなゲームです。
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